第一章 中国の大衆ヒーロー
前章でおさえた大衆ヒーローの特質を念頭に、この章では中国の大衆ヒーローについて見ていく。まず第一節では彼らの活躍の舞台となる中国の大衆文芸をおさえ、その上で第二節では、その中でも継続した人気を誇る「義俠」ものの定番である『水滸伝』について、作品世界とその主人公たちの魅力を見ていく。
第一節 中国の大衆文芸
1)その主なジャンル
中国の大衆文芸を見ていくに先立ち、まず、その主なジャンルについて整理しておきたい。
中国の大衆小説におけるヒーローの類型を見るにあたり、その分類方法であるが、中国のヒーロー物語のジャンルは「衣冠[1](官僚)」と「布衣[2](無位無官)」、「文」と「武」の軸が交差するところに当てはめることができる。そのためここでは、その軸に焦点を当て類型を見ていきたい。
まず、中国の大衆小説の1つ目のジャンルとして、衣冠と文が交わる「公案」ものの世界を見ていく。ここでのヒーローは清廉潔白にして明察、神のごとき官僚である。彼等は権門貴顕、貪官汚吏の悪事をあばき、狡猾なる完全犯罪の謎を解くことにより、難事件を解決する。代表作として『包公案[3]』があげられる。
次に中国の大衆小説の2つ目のジャンルとして、衣冠と武が交わる「戦記」ものの世界を見ていく。ここでのヒーローは武将である。彼等は異民族を打ち払い、内乱を平定し、建国や救国に獅子奮迅の働きをする。代表作としては「木蘭辞[4]」があげられるであろう。
そして中国の大衆小説の3つ目のジャンルとして、布衣と文が交わる「神怪」ものの世界を見ていく。ここでのヒーローは僧侶や道士を含む山林の隠者である。彼等は俗世を離れて隠れ住み、巷間に飄然と現れ、瓢然と去っていく。また、人知の及ばぬ道を極めた隠者の世界というものは異界と地続きである。そのため、天文、易占、医薬から神仙術を駆使して妖魔の退治を行う。そして善人に幸福、悪人に凶運をもたらすのである。代表作は『封神演義』であろう。
最後に中国の大衆小説の4つ目のジャンルとして、布衣と武が交わる「俠義」ものの世界がある。ここでのヒーローは緑林[5]の好漢(義賊)や俠客である。彼等は法や権威などものともしない武勇あふれる任俠の男伊達であり、強きをくじき弱きを扶く。そしてその代表作は『水滸伝』であろう[6]。
「衣冠」「布衣」「文」「武」という軸に着目して分類すると、中国の大衆文芸には「公案」もの、「戦記」もの、「神怪」もの、「義俠」ものというジャンルがある。
2)「義俠」もの
前節を受け、ここでは永く人気のある「武俠」ものを詳しく見ていく。
中国の大衆文芸には、遊俠たちが活躍する武俠小説というジャンルがある。清代以前の過去の時代を舞台とし、義俠心に篤く武芸に優れたヒーロー及びヒロインが、剣戟、カンフー、歴史、恋愛、冒険、謎解きに活躍する、いわゆるヒロイック・ストーリーである。武俠の「武」はヒーローの肉体的特徴、「俠」は精神的特徴を表している。それまで中国に存在した様々な小説ジャンルのエッセンスを集約して成立したもので、俠義小説と剣俠小説の二つを主に核とする。俠義小説とは、世直しを図る清廉潔白な官僚を在野の英雄好漢が手助けして大活躍する物語で、清代後期に隆盛した。この俠義小説に描かれる男伊達の世界は、ほぼそのまま武俠小説に吸収されており、その祖型となっている。それは遡れば『水滸伝』が描く豪傑好漢の心意気にも通ずるものがある。代表作は『三俠五義』で、宋の仁宋時代を舞台とし、公正無私にして明察の裁判官包拯のもとに、五人の義士が寄り集い、縦横無尽の活躍を見せるという内容である。そして剣俠小説は、『三俠五義』の人気に触発されて清末に流行した、仙人あるいは半人半仙の剣俠が活躍するチャンバラ小説である。代表作は『七剣十三俠』で、若き義士徐鳴鴻を中心に、七剣客十三俠士が忠臣王守仁を助け、国家顚覆をたくらむ寧王一味と渡り合うという内容である。この剣俠小説に登場する「江湖[7]」「武林[8]」の世界観は、その後の武俠小説の成立に大きく寄与している[9]。
3)「義」「俠」とは
以上、「義俠」ものとして武俠小説について見てきたが、ここで改めて「義俠」という言葉に注目してみる。まず「義」の字義は、白川静『字統』によると、「羊と我とに従う。我は鋸の象形。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥がなく、神意にかなうものとして「義しい」の意が生まれる[10]」という。
「義」の語義は、諸橋轍次『大漢和辞典』によると、@よい。Aただしい。Bたひらか。Cきりもり。Dのり。みり。Eつとめ。F君によくつかへること。Gをとこ氣。Hことわり。Iわけ。Jたよりがい。Kめぐみ。L衆人が共に奉戴する。M衆人と事を共にする。Nすぐれる。Oあはせる。まぜる。Pかり。Qよくない。R に同じ。S誼に通ず。21議に通ず。22通じて儀に作る。23文體の名。24義太利の略稱。25姓。である[11]。
「義」の意味についてその変遷をたどると、まず中国春秋時代末において、この時代には、人としてなすべきことの意味に用いられていた。孔子『論語』「為政」篇には、「義を見て為さざるは勇なきなり」と、利と鋭く対立する倫理的責務として捉えられている。そして、正道を守るための自己抑制の原理とされているが、仁が最高の徳目とされているのに対し、「義」は礼・智・信・勇・孝・悌などと並ぶ徳目の一つであった。この時代において義は、後世の仁義と併称されるようなものではなかったのである。
戦国時代初期になると、諸子百家の一派である墨家は「義」を強調し、「義」のために身命を賭することも辞さず、世の人がそれを認めなくてもひたすら本分を尽くした。例えば、「万事は義より貴きはなし」「義はその身より貴し」の言葉にそれを見ることができるであろう。また、『墨子』「非攻上」篇において、他人の所有物や生命を奪うことや身体を傷つけることは他人に損害を与える、不仁であるから、不義であるにもかかわらず、他国を攻めて多くの人を殺傷することを「義」と考える「天下の君子」を痛烈に批判した。そして、自利のために人を損ね傷つけることは、それが個人であろうと国家であろうと「義」に反することであるとした。墨者の「義」というものは、自利を排して広く天下のために無私の献身を貫き自己犠牲を厭わぬことであり、またこれは、死をもって然諾(約束)を重んずる任俠的な結びつきの原理でもある。
諸子百家の一派である儒家の孟子は、墨家の影響をうけ、孔子の「仁」に「義」を加えて「仁義」を強調した。しかし、家族道徳における「孝悌」の道を基本とし、君臣の「義」もその延長と考えた。そして、「仁義」にもとづく王道政治こそが、「孝悌」を広く天下に推し及ぼすと説いた。また、彼の説は性善説に立っており、「仁」も「義」もその端緒は人間に本来具わっているとしているため、これらの道徳的能力を正しく伸ばすことにより、個人的には人格を完成し、社会的には王道政治が実現するとした。
六朝〜隋唐(3〜7C)頃にかけて、「義」は様々な社会的関係、特に個人と個人の間においてあるべき姿を示す語となった。当時の正史の記述から伺える「義」と評価される行為をみてみると、まず、窮地に陥った王君・仲間を見捨てない、命を賭して自分に与えられた任務を遂行、危険をおかしても非業の死を遂げた主君・友人の屍を収容して手厚く葬る、非業の死を遂げた人物の残された家族の世話をするという事柄が挙げられる。つまり「義」は、他人から受けた恩や信頼を裏切らないこと、恩・信・誓・約などに背かないことであった。その背景には、戦国時代以降に民間に広まっていた任俠的習俗が大きく関わっている。
唐(7〜10C)において、「義」は個人の恩義や信頼関係よりも体制の枠内での上下関係、特に君臣関係の意味合いが強かった。君臣の「義」では、互いの気持ちを一つにすることが強調され、一方的関係ではなく、相互関係によって成り立つべきだと考えられた。
宋代(13C)以降において、「義」は道義的正しさの原理として顕著な表れを見せる。北宋期(10〜12C)には「義理」の学が提唱され、文章や経書解釈の末節ではなく、人間理解の根本に立ち戻ろうとする動きが見られた。その中心は道学で、「義理」とは、学ぶ者が真摯に探求し実現すべき理想・道徳原理とされた。
道学の大成者である朱熹は、『孟子』公孫丑上の四端説について、「義」は性=理の一環であると解釈した。そのため、彼の唱える義は、四端の一つの「羞悪」である自他の不善を恥じ憎む情に対した理であった。そして朱子学では「仁」が根本的な徳とされ、それとの関係付けにおいて「義」の意味も深められた[12]。
次に「俠」についても同様に見ていく。字義は、白川静『字統』によると、声符は夾であり、後漢の学者である許愼の『説文解字』には「二人を俠む」と俠を挟持の意に用いるが、「俜なり」「俜は使なり」という箇所もある。俜使という語は、金ばなれのよいことをいう[13]。
また語義は、諸橋轍次『大漢和辞典』によると、@をとこだて。をとこぎ。Aかるい。Bわかい。Cやぶれる。Dほしいまま。わがまま。E美人。Fこころよい。Gさしはさむ。もつ。たもつ。Hつぐ。Iあまねし。達する。J姓。Kかたはら。ならぶ。そふ。[14]である。
「俠」に初めて言及したのは韓非である。韓非は『韓非子』「五蠧」篇において、遊俠を激しく糾弾している。しかし、後に司馬遷が『史記』「游俠列伝」において、遊俠を賛美し、一層明確な定義付けを行った。この二者による遊俠への見解は大きく異なるので、ここで詳しく見ることにする。
まず韓非の見解であるが、彼は国家統治の根本を厳しい処罰と法律としている。そのため、直接法制に危害を加える遊俠が賞賛されるのは不正常であるとし、また、遊俠や刺客を養う国家は治まらないと説いた。韓非の言う「俠」とは、君主の権威に服従せず国家の法令を遵守しない者、ひいては専制的な君権に対する脅威を形成する者のことである。絶対多数の遊俠の徒は、不法な臣下を主人とし、その主人に使役されるというのが現実ではあった。具体的に『韓非子』の記述を見てみると、「五蠧」篇には「遊俠の徒は徒党を組み、おとこ気を立て、その名を売りこみ、政府の禁制をおかす[15]」、「八説」篇には「官爵をすてて私行を重んずるものを有俠(俠気のあるもの)といい[16]」と書かれている。
一方、司馬遷の見解であるが、遊俠はその行為が世の正義と一致しないが、重んずべきところを有すとした。例えば、言ったことを必ず遵守し、なそうとしたことは絶対にやり遂げ、引き受けたことは確実に実行し、身をなげうって他人のために奔走し、己の能力におごらず、己の徳行の自慢を恥じるという点である。司馬遷が言う俠とは、世の正義と一致しない行為はあるが、義俠を重んじ、人を困窮から救うことに熱中し、私利を顧みない者であった。彼においても具体的記述をみると、「その行為が世の正義と一致せず」「当時の世の法律の網を破る」という点は指摘しつつも、「言ったことは絶対に守り、なそうとしたことは絶対にやり遂げ、いったん引き受けたことは絶対に実行し、自分の身をなげうって、他人の苦難のために奔走し、存と亡、生と死の境目をわたったあとでも、己の能力におごらず、己の徳行を自慢することを恥とする」としている。この二つの異なる見解に対し、汪涌豪『中国遊俠史』は、評価するときの重点の置き方が異なるのだとし、そして、司馬遷の論述は韓非の論述よりも具体的で活力があるので、後世に対する影響は大きかったとする[17]。
4)遊俠の徒とは
遊俠の徒については、主に汪涌豪『中国遊俠史』に拠りすすめていく。遊俠の徒は、必ずしも特定の社会階層の出身者に限られない。庶民や官僚など、階層によって区分することはできないということである。つまり、熱心に公に尽くし義俠心に富む思いやりにより、常にある種の信念のためにそのような行為を行う一群の人々のことを指す[18]。
遊俠が生まれた、社会の大変動期である春秋時代末期から戦国時代初期というのは、百家争鳴の時代である。そこから考えると、諸子百家と遊俠には一定の関係があるとみることができる。百家争鳴の時代に登場した遊俠は、激烈な心情を有する行動家であった。坐して道を論ずる理論家ではなかったものの、塾を設けて教授した。その点からみて、出現直後においては、主に儒墨両家と、時に道徳的規範の面に留まらず、一定のつながりはあったといえるであろう。しかし、どの学派の出身であるかを確実にいうことは非常に難しい[19]。
遊俠の人格的特徴について、汪涌豪は以下の4点をあげている。まず、「義を慕い憤激し、難に臨んでなおざりにしない忠勇」である。「義」を慕うことこそ、遊俠の最も基本的な特徴であり、あらゆる行動の準則でもある。そして、道義上の責任を積極的に引き受ける者として遊俠の人格的選択の基本的な方向を反映している。儒家のいう「義」は道徳や礼儀にかなう行動の節操であるのに対し、遊俠が理解し固守する義は、「社会の道徳に規定されるものよりも高く」なければならないと思想家馮友蘭(1895〜1990年)は指摘する。それはつまり、義に対する遊俠の意識は常人よりも過酷であり、厳格であり、絶対的であるということである。それ故に、遊俠の行動、遊俠が実行する義俠心に富む行為は往々にして超道徳的な特徴を具えているということなのである。遊俠の忠誠かつ勇気は、国家や民族、天下の庶民にまで施し、国家、民族、庶民の利益のために奮起して抗争し、傾いた大勢をふたたび回復し、独り天下の重任に任じて回避せず、勇と義をともにし、全く後悔しないでいられることである。そしてこれこそ遊俠の人格のうちで最も光り輝き、最も賞賛に値する品格だと汪涌豪はいう。
遊俠の人格的特徴の二つ目は、「気を重んじ死を軽んずる放縦さ」である。明末の思想家李贄(1572〜1602年)が「俠忠」と呼ぶ、遊俠の正義を慕い、感激して奮い立ち、難に臨んでなおざりにせず、国家や民族、社稷[20]や民衆の利益のために奮起して義俠心をふるう様子こそ、これである。しかし遊俠は、世俗にこだわらず、仕官して出世することを好まず、何事にも拘束されない自由な生活を憧憬する。そのため、遠大な政治目標によって自らを励まさず、意気に感じ、義憤に激し、ほとんど先天的に与えられていた情熱や腕力に頼って行動するので、気を重んじ死を軽んじ、身を愛さないこととなるのである。そして遊俠の死生観とは、義俠心と心意気を伸張できさえすればよい、というものであり、生命の犠牲を惜しまないものであるので、それにもとづき、遊俠の徒は気を尊び義俠心をふるうのである。ここで、遊俠の重んずる「気」について言及すると、これは、儒家の道徳的理想である、「浩然の気[21]」をそそぐのみでなく、浩然の気と截然と対立し、発揚してほとばしり、鬱勃として抑えがたい奇怪な兆候を呈することもあるという。それゆえ遊俠は、心行くまで個性を伸張、絶対的な自由を崇拝、恩やあだを満足させ、意気が激しく高ぶると正常な態度を逸するにいたるのである。遊俠の徒は義俠心をふるうとき、義の字を求めて先頭に立ち、少しももの惜しみせず、その他の項目は全くその行動を匡正することができないのであるが、平素は、自然にゆだね、世俗と競わず、才気が衆人にぬきんでていることを自負し、意気がますます盛んであり、人となりが冷ややかで、行動がこせこせしておらず、酒を軽んじ肉を粗末に扱い、大声で長時間唱い、わがまま勝手にし放題で、倹約することを知らないのである。これらの姿に対し、社会の大多数の人々は賞賛するが、遊俠の徒自身にとってはまだまだ「小廉曲謹[22]」であり、比類がないほど美しい姿ではないのである。そして遊俠は、性格が激しく気概があり、節操を持し孤独で、眼前に人はなく、一つの理を正しいと思うや、切り替えることは全くないのである。
三つ目として、「行いを正し、名誉を重んずる」という点があげられる。先ほども述べたとおり、遊俠は正義を慕い恩義を感じ、難に臨んでなおざりにせず、気を重んじて死を軽んじ、わが身を惜しまない。それに加え、名誉を心から重んじ、高尚な志節を清め、世俗から自立することを渇望するのである。財を貪る人は財のために命を落とす一方で、大事業をなすべき志を立てる人は名誉のために命を落とすのである。遊俠の徒は、寿命の短さよりも、名をあげられないことを憂える。また、行いをまっすぐにし、名誉を重んじ、苦心して自ら励むことは、遊俠のあらゆる行動に貫徹されており、これこそ、遊俠を他の人々から区別する独特の人格的特徴であるということができる。士人は、道徳的な品格と節操の練磨を通じて社会や朝廷における立身出世を求めるが、遊俠は、徳行の練磨によって遊俠や武人の社会において立身出世するとともに、社会全体で名声を博することを求めるのである。この、普通の人情や道理を自己の奉ずる道徳水準と価値判断の最高の基準にすることに満足しない点は、貴ぶべきことだといえる。
そして最後に、「すさまじい勢いで権力をふるう傲慢さ」も、遊俠の人格的特徴として挙げられる。遊俠は、常人よりもかなり特殊で強烈な、勝手気ままで奔放不羈、剽悍にして順応しにくい、という個性を具えている。このため、遊俠の徒は不意に突発的な事件に出会うと、名声と威信を保ち、意気を見せびらかすために、庶民でさえ殺す可能性があったのである。例えば、五代の後周の太祖郭威(904〜954年)は、ある肉屋が人を辱めているのを目撃したので、酒に酔った勢いもあり、懲らしめようと言いがかりをつけ、肉屋を激しく叱責した。すると、もともと命がけで面子を守る人であった肉屋は、その恥辱に耐えることができず、郭威を殺そうとしてきたのである。そこで郭威は肉屋を刀で刺し殺すのであるが、それは、ここで肉屋を殺さなければ名をあげ威信を確立することができなかったためなのである。そして、時にはなんら悪事をしていない者さえ殺される。そのため、遊俠が歩けば庶民は皆それを畏怖し、道を譲ったという話もある。また、公に背いて仲間のために死んだり、みだりに私人同士で誼を結び村里に勢力を拡大したり、暴力で強奪したり、己の意思によって朝廷、役所、法令を圧倒したりという遊俠の行動は、遊俠の放恣・凶暴・頑固な習性が極点にまで発展した現れであり、特に遊俠の末流の放縦にみられるものである[23]。
先ほど民衆が遊俠を畏怖するということを述べたが、社会的存在としての遊俠は、封建制の支配集団には認められず、道徳的奨励を受けることはなかった。正統の立場に立つ、利益享受者の目で評価すると、まっとうでないとみなされているということができるであろう。しかし、遊俠は消滅せず、途切れることなくあらゆる時代に存続する。特に乱世では重んじられた。それは、緊急事態に遭遇した庶民への援助力において、朝廷、役所、国家の法令よりも、遊俠の方が勝っていたからである[24]。
「武俠」ものとは、ヒーローの肉体的特徴である「武」と精神的特徴である「俠」を体現したヒロイック・ストーリーである。そのヒーローである遊俠の徒は、「義俠」つまり、男気の発揮をあるべき姿とし、「義を慕い憤激し、難に臨んでなおざりにしない忠勇」「気を重んじ死を軽んずる放縦さ」「行いを正し、名誉を重んずる」「すざまじい勢いで権力を振るう傲慢さ」という人格的特徴をもつ。
第二節 『水滸伝』――遊俠ものの定番
1)宋江の乱――『水滸伝』誕生の発端
前節で見た遊俠が主人公として登場する大衆文芸の典型は、先ほども紹介したとおり、『水滸伝』である。この項では、『水滸伝』の成立過程を探るにあたり、まず『水滸伝』が誕生する発端となった宋江の乱という史実についてみていく。
「宋江の乱」は『宋史』にその記述がある。それは簡単なもので、宋の徽宗の宣和年間(1119〜1125年)、宋江等36人が山東に叛乱を起こし、一時大いに官軍を悩ますが、後に降伏するというものである。
しかし、宋江らの事実から間もなく、「宋江の乱」は英雄説話として伝説化していく。そして大いにもてはやされ、厖大な説話になっていく。これは、宋江らの行動に対する民衆の共感の現れであるといえる。つまり、腐敗した官僚政治に対する民衆の憎しみが物語を支えていくのである[25]。
「宋江の乱」は、朝廷への叛乱の史実である。腐敗した官僚政治に対する民衆の憎しみが「宋江の乱」への共感となり、その史実は次第に伝説化し、厖大な説話となり、それが『水滸伝』になっていくのである。
2)『水滸伝』の世界
前節で述べたとおり、民衆の「宋江の乱」への共感が『水滸伝』を支えてきた。ここではまず、「宋江の乱」がいかにして『水滸伝』につながるのか、その過程を探り、更に『水滸伝』の具体的内容をおさえた上で、現代に至る伝承の様相を探っていく。
〈その成立〉
『水滸伝』の物語は、はじめは寄席の講談で語られた話であった。元の頃に成立した、当時の講談に関する記録書である『酔翁談録』の中には、「石頭孫立」「青面獣」「花和尚」「武行者」などの題目があり、孫立、楊志、魯智深、武松の物語が寄席で語られていたのが分かる。また、雑劇[26]の演目に燕青を主人公とした「同楽院燕青博魚」、李逵を主人公とした「黒旋風双献功」がある。そもそも、一つの芝居に『水滸伝』の物語全てを収めることは不可能であったので、一人の人物の一つのエピソードが演目となったのである。そして、ここで注目したいのは、一番暴れん坊とされる李逵を主人公にした芝居が多いということである。ここから、当時の人々の好みの一端を知ることができるであろう。元の頃のものであると推定され、徽宗皇帝の時代の様々な出来事を記した『大宋宣和遺事』には、楊志の話など、梁山泊の山賊集団に関する話があり、宋江麾下の36将の名簿もあり、ここからうっすらと『水滸伝』物語の枠組みが形成された様子を伺うことができる。そして、上記の話がまとめられ、話がふくらまされることにより、現在語られているような『水滸伝』が形成されたのである。長い間にわたる民衆の想像力・講釈師の技量が、実在の宋江を種に108人の好漢の物語を創造したのである[27]。
〈その概要〉
次に『水滸伝』の概要を見ていく。『水滸伝』は先ほど見てきたとおり、宋代にその史実が発生し、元代に講談として語られ、また雑劇にも取り上げられ、明代に至り、長篇小説として完成する。先ほども述べたとおり、北宋末に起こった「宋江の反乱」という史実に基づき成立した作品であるが、中国古典小説の研究者孫楷第は『中国通俗小説書目』で「講史」ではなく、「小説」に分類している[28]。叙述や描写が非常に生き生きしているので、中国通俗小説史上の最高傑作に数えられるものの、文学作品としての評価は低い[29]。その編者には諸説あり、施耐庵編という説が定説とされているが、羅貫中編という説、施耐庵の作を羅貫中が改変したという説もある。そのスタイルは連環体形式で、主人公が次々と替わってゆくものである。
舞台を北宋末期の徽宗皇帝の時代にとり、悪者たちが高官の地位を占めて政治を専断し、人民に対して苛斂誅求(税金をむごくきびしくとりたてる)を極める中、そのような世の中の状況を見かねた宋江を首領とする108人の好漢たちが、「替天行道(天に替わって道を行う)」の旗を掲げ、立ち上がるというものである。
〈その版本〉
また、『水滸伝』にはおびただしい版本があるが、それは基本的に第七十一回において分かれる。前半は一人一人の豪傑が梁山泊にやってくるまでの過程、つまり、最初はかたぎの人間として登場したにもかかわらず、意気投合した好漢同士の義理を最優先してしまい、気付けばお上に対して弓を引く結果になり、国家権力に追われ梁山泊に逃れて山賊の群に身を投ずるという「落草」の過程を描いたものである。後半は、梁山泊に108人の好漢たちが勢揃いし、108人の序列と役割分担の決定がなされ、建物には「忠義堂」という名がつけられ、「替天行道」というスローガンを旗に記し、兵を上げ、再三皇帝軍を撃退するという場面から始まる。そして、徽宗皇帝からの招安を受け、梁山泊軍は官軍の配下へと入り、遼国を攻め滅ぼし、各地の反乱軍征伐を行う中で、108人の好漢は次第に討ち死にし、最後に凱旋した宋江等も死亡するという悲劇的結末で終わるものである。版本の中でもっとも有名なのは百回本、百二十回本、七十回本の3つである。まず、百二十回本は全伝本とも言われ、@梁山泊盗賊集団の形成(第1回〜第71回)A投降して官軍となる(第71回〜第82回)B遼征伐(第83回〜第90回)C田虎討伐(第91回〜第100回)D王慶討伐(第101回〜第110回)E方臘討伐、潰滅(第110回〜第120回)という内容から成り立つ。七十回本は、金聖嘆が『水滸伝』を第71回までとし後を切り捨てたものであり、上記の@のみという形である。百回本は、内容として上記のCDを抜いたものである。また、108人の好漢には皆あだ名があり、好漢たちは常にあだ名つきで呼ばれる。そして、直線的なランク付けもある。上位は天罡星36人で、正頭目とされ、下位は地煞星72人で、副頭目とされる。この天罡星と地煞星の差であるが、簡単に言えば、天罡星の好漢の方が強いということである[30]。
〈その評価〉
つづいて『水滸伝』への評価であるが、『水滸伝』は読書人をも含む広い読者を持つ。その理由を大木康は『中国明清時代の文学』の中で、悪に対する憤りや運命のいたずらに対する悲しみ、思うにまかせぬことばかりの人生への感慨が述べられているからだとしているからだとした。また、素手で虎をうち殺す武松や、素手で柳の木を根こそぎ引き抜く魯智深を例に挙げ、豪傑たちの多くは普通の人間の常識を超えた能力の持ち主であると指摘し、このようなスーパーマンぶりが作品の面白さの一つだとした[31]。
一方で体制の側からは「誨盗の書(盗を誨える書)」としてしばしば禁書の列に加えられる。それは、体制の側に属する高官たちが悪官とされ、こうした山賊の論理が正義の論理として述べられるためである[32]。明末清初においても、再三にわたり禁令が出ているが、それは、民衆と共に育ってきた文学は、必然的にその中に反体制的な思想を含んでいるとされるためである。また清朝は、異民族出身の王朝であり、常に民衆の思想動向に神経を尖らせていたため、些細なことから筆禍事件を醸成して言論の弾圧を実施した[33]。このように『水滸伝』は基本的には体制のイデオローグたちに非難されるものであった。それは、民衆の意識を改革し、その主体形成に大きな役割を演じるためである[34]。しかし、そのような情勢の中、民間においては『水滸伝』の後日譚を内容とする続作は次々と排出されたのも事実である[35]。
明末の特異な思想家、李卓呉は、無垢なるもの、純真なるものに至高の価値を見出し、あらゆる聞見[36]道理に曇らされる以前の童心を高く評価した。優れた文学はジャンル、形式に関わらないとし、童心を持った優れた文学作品として小説『水滸伝』、元曲「西廂記」を採り上げた。これは、通俗文学である小説や戯曲を他の詩文と並べて評価しており、当時としては極めて型破りであった[37]。明末清初の特異な文学者、金聖嘆は、『荘子』「離騒」(『楚辞』)『史記』『杜詩』『水滸伝』『西廂記』の六書を「六才子書」と称した。金聖嘆の『水滸伝』は、発端にあたる第一回を楔子として独立させて、梁山泊に108人の豪傑が終結するところ(七十回)で話を結んでおり、個々の豪傑が大暴れする話が強調されている。そして、金聖嘆本が出てからの中国ではこれが最も広く普及し、清朝一代を通じて『水滸伝』といえばこの七十回本を指す[38]。
1920(民国9)年においては、博学の文学者胡適が中国で最初に『水滸伝』の本格的研究に着手し、『水滸伝考証』を著す。しかし、胡適は七十回本しか見ておらず、1929(民国18)年に、百二十回本をみて新たに『百二十回本忠義水滸伝序』を著すこととなる。ここでは、金聖嘆への賞賛がなされている。その理由としては、七十回以下の文章が前半部に遠く及ばないことを見抜くことができた点、盧俊義の夢を加え極めて明確に、強盗が絶滅して初めて天下は太平たり得るということを人に知らしめた点があげられる。民国時代においては、民間からの批判も存在した。中でも魯迅は『金聖嘆を語る』において、金聖嘆が小説や戯曲を持ち上げて『杜詩』等と並べたのは、実は袁宏道等の吐いた唾を拾ったものにすぎないと、七十回以下を切り捨てた金聖嘆を、洒脱の背後にある権力に追従・迎合する者だと非難した。そして更に、金聖嘆をもてはやす当時の文学者にも同じにおいを感じ、金聖嘆への批判を通し、彼らにも同時に批判の矛先を向けた。それは魯迅が、当時、国民党の弾圧によって多くの青年が殺された一方で、文壇には、人生や社会のまじめな厳粛なことをお茶にしてそれを洒落た人生態度のように思いったり宣伝したりする人たちがいたのを憤ったためである。
人民共和国時代には、盗賊の群を描いた小説として永く体制から非難されてきた『水滸伝』が、にわかに「農民起義」を描いた「偉大な英雄史詩」として体制から認知されるようになる。その背景には、毛沢東が『中国革命と中国共産党』において、秦の陳勝〜清の太平天国に至る起義は全て農民の反抗運動・革命戦争であるとし、その中で宋の宋江という名も登場させたという事実がある。毛沢東は『水滸伝』の宋江ではなく、歴史上の宋江の事を言ったつもりであったのだが、その点は混同されたまま、梁山泊の108人は農民革命軍であるという評価が定まってしまったのである。
しかし、1975年には中国共産党が「水滸批判」を開始する。それは、首領宋江に対して卑劣な投降主義者であるという激しい非難であったが、これは文学論ではなく、『水滸伝』を借りての間接的な現実の政治的批判であった。ここにおいて共産党の、梁山泊は農民起義軍、首領宋江は優れた革命指導者、『水滸伝』は千古不滅の革命史詩、不朽の傑作、という評価が変化することとなる。梁山泊は農民起義軍である、しかし、首領宋江は投降派の裏切り者、最も憎むべき悪党、『水滸伝』は投降主義を鼓吹した憎むべき悪質な文学作品であるとしたのである。それに伴い、金聖嘆が水滸の反動的本質に対する人々の認識を曖昧模糊たるものにしたために、『水滸伝』が「反面教材」としての作用を十分に発揮できなくなったとしたとされ、彼は大悪党のレッテルを貼られ、「封建文人」「反動文人」の肩書きつきで呼ばれることとなる[39]。しかし、金聖嘆作の七十回本『水滸伝』が打倒されることは特に無く、相変わらず最も普遍的なテキストとして存在する。
〈『水滸伝』のもたらした影響〉
中国において『水滸伝』は、民衆にとって最も馴染みの深い古典として親しまれ続けている[40]。そして日本においても、江戸文学に大きな影響を与え、翻案作は枚挙にいとまがなかった[41]。また、中国民衆運動にも影響を及ぼしている。明以降の民衆運動の中で『水滸伝』と関係があるものは極めて多いのである。例えば、明末の李自成の乱(1629〜1645年)は、李自成軍の編成を「三十六営」「七十二営」とした。これは『水滸伝』で「三十六大伙」「七十二大伙」とされていたものを意識したものである。そして、英雄の綽名や綽名を若干変えたものを自分たちの名に用いていた。また、明清の民衆運動に極めて密接な関係をもつ秘密結社においても、スローガンを「替天行道」にしたり、清代の多くの反乱を指導した天地会の集合場を梁山泊の「忠義堂」の名からとってつけたりした。更には、中国近代の民衆闘争を大きく切り開いた太平天国の乱(1851〜1864年)においても、軍事軍略に『水滸伝』の詭計が用いられている[42]。
〈『水滸伝』の現代における伝承〉
以上のように、体制から禁止されてもなお、民間における『水滸伝』の人気は途絶えることが無かった。ここでは、そのような『水滸伝』が現代においてどのように伝承されているのかを見ていく。まず中国のyahoo登録サイト数であるが、中国のyahooは日本のyahooと勝手が違い、カテゴリ別に表示されないので、「水浒传」というキーワードから登録ページを見てみると、2004年12月20日現在で、109830件ヒットした。検索してまず出てくるのは『水滸伝』に関する本の販売サイトばかりである。一般的に中国で『水滸伝』といえば70回本を指すとされていたが、インターネットでざっと検索した結果、内容を説明するものは100回本や120回本ばかりで、70回本のものは見当たらなかった。これは、100回本や120回本も流布しているという証であろう。
次いで、最近の『水滸伝』とそのうたい文句をみていく。
张绍林「电影水浒传(DVD)(央视版)」中国国际电视总公司、2003年
「宋仁宗皇帝时,天下瘟疫流行,官府无道,官逼民反。在梁山泊聚起以宋江为首的来自社会中下各层面的好汉,树起“替天行道”的义旗。打州劫府、济困扶贫、严重动摇了北宋朝廷的统治地位。该据描述了梁山泊农民起义从聚义到失败的悲剧结局[43]」
(日本語訳)宋仁宗皇帝の時代、巷には伝染病が流行し、封建官吏は非道であり、民は反感を感じていた。梁山泊において宋江を首領として世の中の好漢が集結し、「替天行道」の旗を掲げる。州劫府を討ち、貧困・困難を救済し、北宋の朝廷の地位を脅かす。これは、梁山泊の農民蜂起の、正義のために終結するところから、失敗に終わってしまう悲劇の結末までを描いたものである。
陈会毅「水浒传之英雄本色 (VCD)」、广东东亚音像制作有限公司 1993年
「八十万禁军教头“豹子头”林冲,忠诚仗义,得罪了皇上身边的太尉高俅,此人阴毒,诡计多端,联合同党设计陷害林冲,林冲虽被朝廷忠臣保住了性命,但仍落得个充军边关的下场。沿途中,林冲被高俅派出的杀手重重追杀,幸而均被其结义兄弟花和尚鲁智深相救。当林冲看到朝廷腐败,奸贼当道,民不聊生,自己心爱的夫人又被高俅强抢不遂惨杀时,与花和尚一起,揭杆投奔梁山。[44]」
(日本語訳)80万禁軍の教頭である「豹子頭」林冲は、忠誠は義理堅い。皇帝の身の回り役の大尉高俅の機嫌を損ねてしまう。高俅は陰険悪辣で、あれこれと悪巧みをし、仲間も共謀させ林沖を陥れようとする。林沖は朝廷の忠臣に命を助けられたが、辺境の要衝で兵役に服さなくてはならなくなる。その道中、林沖は高俅の派遣する刺客に次々と襲われるが、幸い義兄弟の魯智深に救われる。林沖は、朝廷の腐敗、裏切り者の政権掌握、人民が安心して生活できない様子、自分が心から愛した夫人が高俅に不順であったために惨殺されてしまうという事態に直面した時、魯智深と一緒に梁山泊に身を投ずるのである。
また、中国のインターネットサイト上での『水滸伝』の紹介を見てみる。
「是一部著名的描写农民起义的长篇小说。史籍曾 载宋江等36人造反的事迹、而后水浒故事在民间广泛流传。宋末 明初、以水浒故事为题材的话本、戏剧相继问世、最后由明人施 耐庵加工整理、再创作而成。 文学名著《水浒传》如一幅长长的历史画卷、展示了宋代的 政治文化、市井风情、社会景观。梁山好汉最引人注目、他们侠 肝义胆、敢报天下不平、其性格性格光彩照人、令世人敬仰。水浒中的一百单八将传说是三十六个天罡星和七十二个地煞 星转世。大宋仁宗嘉佑年、天下瘟疫盛行、民不聊生。仁宗皇帝 命钦差太尉洪信为天使、前往江西信州龙虎山、宣请嗣汉天师星 夜进京、施用法术、消灾保民。不料洪太尉在伏魔大殿无意中放 出了三十六员天罡星、七十二位地煞星、共是一百单八个魔君。 这就是以后的水浒中的一百单八将。[45]」
(日本語訳)これは農民蜂起を描いた有名な長編小説の一つだ。かつて 宋江等36人の反逆という事件があり、それが後に水滸のストーリーとして民間の間に広く伝わることになったのである。宋末明初において、水滸のストーリーを題材とした講談本や芝居が次々と発表され、そして施耐庵が加工、整理を施し、再び作り上げたのである。 文学の名著『水滸伝』は1枚のとても長い歴史絵巻のようで、宋代の政治文化、市井の風情、社会景観を描いている。梁山泊の好漢の最大の注目点は、俠を重んじる心、天下の不平に報いることであり、その性格は華やかで、世間の人に敬われている。『水滸伝』中の108人の好漢の伝説は、36の天罡星と72の地煞星の星の生まれ変わりである。大宋仁宗嘉佑年、天下では伝染病が流行し、人民は安心して生活できなかった。仁宗皇帝は洪信太尉を天使に任命し、龍虎山の天師の元に向かわせたが、彼は夜のうちに上京し、魔術を用いて災難から人民を守っていた。そこにおいて、洪大尉は思いがけず伏魔大殿にある36の天罡星、72の地煞星、全部で合わせて108の魔王を開放してしまう。これこそ、後の『水滸伝』の108人の好漢である。
現代の中国における『水滸伝』の内容は多様化している。120回本に忠実であったり、特定の好漢に焦点を当てたりと、様々な切り口から物語を取り上げる傾向が強い。しかし、どの部分が取り上げられても、内容としては、世の中の乱れに不満を抱くことから始まり、農民蜂起するものが多く、ここに『水滸伝』の核がある。
また、現代の中国『水滸伝』事情を、蘇州大学からの中国人留学生・于建新君に尋ねたところ、版本で人気のあるのは70回本であるが、100回本も120回本も流行している。子どものころは70回本を読み、大きくなったら120回本という風潮がある。また、必読書という、読まなくてはならない本のリストの中に『水滸伝』が含まれており、小学校で読まされるものであるため、皆が『水滸伝』を知っている。更に蘇州大学には必読書の試験もあり、これは必修科目となっているという。
宋代に起こった「宋江の乱」の史実は、元代において講談や雑劇となり、明代において、小説としての形を完成させる。その過程で、体制から再三にわたり発禁処分を受けるものの、特に明末清初の学者である金聖嘆が作った七十回本は、近年においてもなお同じ形で人々に受け入れられている。また、現代では『水滸伝』の内容が多様化しているが、農民蜂起という点においては、その内容が一貫している。
3)『水滸伝』のヒーローたち
この節では、現代における伝承から『水滸伝』のヒーローたちの姿を見ていく。
まず『水滸伝』の好漢の基本情報を見た上で、挿し絵つきで彼等に対して丁寧に紹介を行っていた中国のインターネットサイト「水滸伝[46]」に主により、その人物を見ていく。そして、中国テレビ放送史上最高視聴率を45.91%記録したドラマ『水滸伝』での配役の写真を参考に、演者の身体的特徴の傾向や、演じられ方を探り、そこから現代における好漢のイメージを探り出す。
《宋江(そうこう)》
梁山泊総大将であり、恵みの雨という意味で、普段つかわれる「及時雨」というあだ名と、「自称保義」「保義と呼ばれる男」という意味の、正式用の「呼保義」というあだ名をもつ。ちなみに保義とは保義郎の略であり、宋代のごく低い位の武官の職名である。彼は色黒の小男であり、武芸・腕力ともになく、知力や特殊能力もないといった二流人物に描かれているが、義俠心は篤く、107人の豪傑から尊敬されている。
〈サイト情報〉
「宋江、人唤“及时雨”。早先为山东郓城县押司、整日舞文弄墨、书写文书、是一刀笔小吏。晁盖等七个好汉智取生辰纲事发、被官府缉拿、幸得宋江事先告知。晁盖派刘唐送金子和书信给宋江、宋江的老婆阎婆惜发现宋江私通梁山、趁机要胁、宋江怒杀阎婆惜、逃往沧州。被迫上梁山。后宋江做了梁山泊首领。受招安后、被宋徽宗封为武コ大夫、楚州安抚使兼兵马都总管、最后被高俅用毒酒害死。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては、「智取生辰綱」事件を起こした晁蓋や呉用等に、追っ手が迫っていることを告げ、逃がしてやるエピソードと、勢い余って閻婆惜を殺したエピソードといった、落草のきっかけがよく取り上げられている。また、彼の特徴を謙虚で礼儀正しいとするサイトもあった。
配役傾向としては、肉体派でもなく、美形でもない中年男性に演じられることが多い。しかし、決してみすぼらしいわけではなく、落ち着いた大人の貫禄はあるように伺えた。
以上を総合すると、宋江は義俠者集団の象徴という存在であると考えられる。
《呉用(ごよう)》
梁山泊3であり、「智多星」というあだ名をもつ。本業は村の寺子屋の先生程度の学者であるが、ずば抜けて頭が良い。梁山泊軍団の軍師の地位に坐り、大将・副大将に代わり実質的に梁山泊軍団を動かす。
〈サイト情報〉
「吴用、表字学究、道号加亮先生。平生机巧聪明、曾读万卷经书。使两条铜链。吴用为晁盖献计、智取生辰纲、用药酒麻倒了青面兽杨志、夺了北京大名府梁中书送给蔡太师庆贺生辰的十万贯金银珠宝。宋江在浔阳楼念反诗被捉、和戴宗一起被押赴刑场、快行斩时、吴用用计劫了法场、救了宋江、戴宗。宋江二打祝家庄失败;第三次攻打祝家庄时、吴用利用双掌连环计攻克祝家庄。吴用在破连环马时、派时迁偷甲骗徐宁上了梁山。宋江闹华州时、吴用又出计借用宿太尉金铃吊挂、救出了九纹龙史进、花和尚鲁智深。一生屡出奇谋、屡建
战功。受招安被封为武胜军承宣使。宋江、李逵被害后、吴用与花荣一同在宋江坟前上吊自杀、与宋江葬在一起。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては、「智取生辰綱」事件を計画したことなど、策略で何を起こしたのかというエピソードがよく取り上げられている。また、彼の特徴を智謀に長けるとするサイトもあった。
配役傾向としては、肉体派でもなく、美形でもない中年男性に演じられることが多い。宋江ととても似た感じの雰囲気を持っているように伺えた。
以上を総合すると、呉用は義俠者集団の知力という存在である。
《林冲(りんちゅう)》
梁山泊6であり、「豹子頭」というあだ名をもつ。豹のような頭という意味であり、この風貌の描写は『三国志演義』の豪傑張飛のそれを借りたものである。もと武官で禁軍の槍棒の師範を務めており、美しい妻と仲睦まじく暮らしていたが、その妻に惚れた朝廷の大官一味に無実の罪を着せられ、落草していく。
〈サイト情報〉
「林冲、在梁山泊英雄中排行第六、马军五虎将第二。早年是东京八十万禁军枪棒教头。因他的妻子被高俅儿子高衙内调戏、自己又被高俅陷害、在发配沧州时、幸亏鲁智深在野猪林相救、才保住性命。被发配沧州牢城看守天王堂草料场时、又遭高俅心腹陆谦放火暗算。林冲杀了陆谦、冒着风雪连夜投奔梁山泊、为白衣秀士王伦不容。晁盖、吴用劫了生辰纲上梁山后、王伦不容这些英雄、林冲一气之下杀了王伦、把晁盖推上了梁山泊首领之位。林冲武艺高强、打了许多胜仗。在征讨江浙一带方腊率领的起义军胜利后、林冲得了中风、被迫留在杭州六和寺养病、由武 松照顾、半年后病故。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては、梁山泊の好漢とは終始対立する高俅に無実の罪を着せられ、高俅の息子が林冲の妻に横恋慕し、挙句の果てに死に追いやられるエピソードといった落草のきっかけがよく取り上げられている。また、彼の特徴を我慢強いとするサイトもあった。なお、林冲を主人公とした作品もある。
配役傾向としては、筋骨隆々ではないが、肉体的に引き締まった美形に演じられることが多い。中年というよりも、青年に近い印象がある。
以上を総合すると、林冲は憂いを帯びた義俠者という存在であると考えられる。
《魯智深(ろちしん)》
梁山泊13であり、「花和尚」というあだ名をもつ。「花」とは背中の入墨のことを指す。また、ここでの「和尚」という言葉は敬意を帯びた語ではなく、生臭坊主というような意味である。彼は巨漢で、剛力無双、正義感が強く、不憫な娘と爺さんを助けるため肉屋を拳骨三発で殴り倒したために寺へ逃げ込むこととなる。
〈サイト情報〉
「鲁智深、梁山泊第十三位好汉、十员步军头领第一名。鲁智深原名鲁达、是经略的提辖、因为见郑屠欺侮金翠莲父女、三拳打死了镇关西。被官府追捕、逃到五台山削发为僧、改名鲁智深。鲁智深忍受不住佛门清规、醉打山门、毁坏金身、被长老派往东京相国寺、看守菜园、因将偷菜的泼皮踢进了粪池、倒拔垂杨柳、威名远扬。鲁智深在野猪林救了林冲、高俅派人捉拿鲁智深、鲁智深在二龙山落草。后投奔水泊梁山、做了步兵头领。宋江攻打方腊、鲁智深一杖打翻了方腊。后在杭州六合寺圆寂而死。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては、困っている父娘を救うために、肉屋を殴り、3発で殺してしまうエピソードといった落草のきっかけがよく取り上げられている。また、彼の特徴を率直で忠実、大まかなようで細かいところに気がつく、義理堅く剛直とするサイトもあった。
配役傾向としては、筋骨隆々で、厳つい中年男性に演じられる傾向がある。髭もじゃではあるが、坊主であるため、李逵に比べ清潔感がある。
以上を総合すると、魯智深は前節で見たような遊俠の徒の性格的特徴に非常に忠実であり、典型的な義俠者という存在であると考えられる。
《武松(ぶしょう)》
梁山泊14であり、「行者」というあだ名をもつ。これは、殺人を犯した後落ち延びる際に行者に化けたためである。『水滸伝』23回〜32回は武松の話であり、これは「武十回」と呼ばれ、虎退治や、自分の兄を殺した西門慶・潘金蓮殺しなどから成る。また西門慶・潘金蓮の話は、明代の長篇口語小説『金瓶梅』の題材となる。
〈サイト情報〉
「武松排行第二、江湖上人称武二郎、清河县人。景阳冈借着酒劲打死老虎、威震天下、做了阳谷县步兵都头。哥哥武大郎被奸夫淫妇潘金莲、西门庆杀害。武松杀了奸夫、淫妇、报案自首、被发配孟州牢城。在安平寨牢营、结识了金眼彪施恩。为替施恩夺回店铺、武松大闹快活林、醉打蒋门神。后被蒋门神勾结张团练所陷害。在飞云浦武松杀死公差、回鸳鸯楼杀死张团练、蒋门神、在十字坡张青酒店改扮成行者、在二龙山落草、后来投奔梁山泊。成为梁山第十四条好汉、步军第二名头领。攻打方腊时失去左臂、留在六合寺照看林冲、后出家成僧、到八十岁死去。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては、虎退治、兄を殺した西門慶、潘金蓮を殺すエピソードがよく取り上げられている。また、彼の特徴を強く勇ましく俊敏で、気持ちは繊細とするサイトもあった。なお、武松を主人公とした作品もある。
配役傾向としては、彼の場合他の好漢よりもその雰囲気にばらつきが多いが、がっちりした中年男性に演じられることが多い。また顔は、美しさや厳つさやよりも、ニヒルな感じが現れているように思う。
以上を総合すると、武松は孤高の義俠者という存在である。
《李逵(りき)》
梁山泊22であり、「黒旋風」というあだ名をもつ。これは、色黒で二挺の板斧を振り回して人を斬り殺す彼の姿からきている。また彼は、梁山泊きっての暴れ者であり、戦力として多大なる貢献を果たすが、殺人の際に善悪の見境はない。腕力はあるが、知力はとても低く、単純である[47]。
〈サイト情報〉
「李逵、长相黝K粗鲁、小名铁牛、江湖人称“K旋风”、排梁山英雄第二十二位、是梁山步军第五位头领。宋江被发配江州、吴用写信让江州两院押牢节级戴宗照应。李逵这时正是戴宗手下做看守的一名小兵、就和宋江认识。戴宗传梁山假书被识破、和宋江两人被押赴刑场杀头、李逵率先挥动一双板斧打去、逢人便杀、勇猛无比。上梁山后、思母心切、就回沂州接老母、翻越沂岭时老母被老虎吃了、李逵生气杀了四虎。招安时、李逵不愿受招安、大闹东京城、扯了皇帝诏书、要杀钦差、还砍倒梁山泊杏黄旗、要反攻到东京、为宋江夺皇帝位子、多次被宋江制止。李逵受招安后被封为镇江润州都统制。宋江饮高俅送来的毒酒中毒后、想到自己死后李逵肯定要聚众造反、怕坏了梁山泊的忠义名声、便让李逵也喝了毒酒一块儿被毒死了。」
いくつかのサイトを閲覧した結果、彼の紹介としては捕らえられた宋江と戴宗を救い出すエピソードがよく取り上げられている。また、彼の特徴をそそっかしいが度胸があり、率直で忠実とするサイトもあった。なお、李逵を主人公とした作品もある。
彼の写真を入手することはできなかったが、配役傾向としては、毛むくじゃらの大男に演じられることが多い。また、見た目は中年男性であるが、振る舞いとしては子どものような印象が強い。
以上を総合すると、李逵は義俠者集団の武力という存在である。
梁山泊の好漢は大きく分けて二種類に分類される。能力的にバランスのとれた義俠者と、一部の能力を欠いている義俠者である。林冲、武松、魯智深は前者にあたり、宋江、呉用、李逵が後者にあたる。バランスのとれた義俠者は、全てを兼ね備えているため、その人間性、人生がその人物の個性となり、一部の能力を欠く義俠者は、能力を欠くが故に、別の能力が突出し、それがその人物の個性となる。そう考えると、宋江は義俠者集団の象徴、呉用は、義俠者集団の知力、林冲は憂いを帯びた義俠者、武松は孤高の義俠者、魯智深は典型的な義俠者、李逵は義俠者集団の武力であるということができるであろう。
『水滸伝』のヒーローは、目を通した中ではほとんどキャラクターは固まっており、宋江は義俠者集団の象徴、呉用は、義俠者集団の知力、林冲は憂いを帯びた義俠者、武松は孤高の義俠者、魯智深は典型的な義俠者、李逵は義俠者集団の武力として描かれている。
中国の大衆文学には、「公案」もの、「戦記」もの、「神怪」もの、「義俠」ものというジャンルがあり、その中でも「義俠」ものの典型『水滸伝』は、永く人気を継続している。そして現在、『水滸伝』は腐敗した政治に対する農民蜂起の物語として描かれ、そこに登場する好漢に関しては、宋江は義俠者集団の象徴、呉用は、義俠者集団の知力、林冲は憂いを帯びた義俠者、武松は孤高の義俠者、魯智深は典型的な義俠者、李逵は義俠者集団の武力として描かれている。
[1] 衣冠をつけた人。天子・皇帝に仕えている人(『大辞泉』小学館)
[2] 《昔、中国で、庶民は布(ふ)の衣を着たところから》官位のない人。庶民。(『大辞泉』小学館)
[3] 明代裁判小説の篇名(『中国学芸大事典』大修館書店)
[4] 古楽府の名。梁鼓角横吹曲辞。作者不詳。(『中国学芸大事典』大修館書店)
[5] 《前漢の末期、王莽の即位後、王匡・王鳳らが窮民を集め、湖北省の緑林山にこもって盗賊となり、征討軍に反抗したという、「漢書」王莽伝下にある故事から》盗賊のたてこもる地。また、盗賊。(『大辞泉』小学館)
[6] 以上、中国の大衆ヒーローについては、岡崎由美『漂白のヒーロー――中国武俠小説への道』大修館書店、2002年、18頁要約
[7] 「官」に対する「野」の世界で、腕っ節一つで天下を渡り歩く俠士や義賊のアウトロー的世界(鈴木陽一編『中国の英雄豪傑を読む 『三国志演義』から武俠小説まで』大修館書店、2002年、172頁参照)中国の書物に、「江湖」という言葉は古くからある。日本では、「江湖」は、たいてい「天下」「世間」「世の中」と訳されている。これはもうまったくその通りで、国土のことを「山河」というように、「江湖」は河と湖によって広く世間を指した。中国で最も長い川「長江」と、最も大きな湖「洞庭湖」を併せて「江湖」とし、世の中を表したものという。(岡崎由美『漂白のヒーロー――中国武俠小説への道』大修館書店、2002年、53頁要約)
[8] 1920年代ごろ、武俠小説の形成とともに使われ出した用語で、文壇のことを「文林」というのに対して、武術界を指すものとして作られた。鈴木陽一編『中国の英雄豪傑を読む 『三国志演義』から 武俠小説まで』大修館書店、2002年、172頁参照)
[9] 同上、168〜174頁要約
[10] 白川静『字統』平凡社、1997年を引用
[11] 諸橋轍次『大漢和辞典』大修館書店、2001年要約
[12] 溝口雄三他編『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年要約
[13] 白川静『字統』平凡社、1997年
[14] 諸橋轍次『大漢和辞典』大修館書店、2001年参照
[15] 柿村峻・薮内清訳『中国古典文学大系 韓非子 墨子』平凡社、1998年、319頁引用
[16] 同上、297頁引用
[17] 汪、前掲書、37頁〜51頁参照
[18] 同上、108頁参照
[19] 同上、80頁〜102頁参照
[20] 中国の王朝の重要な祭祀。またその場所。転じて国家の意ともなる。社稷の語は金文や『詩』『書』には見当たらず、社と稷の結合は比較的後代に始まる。社を土地神、稷を穀神と区別する見方もあるが、二者は一体とみるべきである。(日原利国編『中国思想辞典』研文出版)
[21] 孟子の言葉、『孟子』公孫丑篇上にある。ひろびろとした気の意。孟子は、「志は気を帥いるなり、気は体を充たすなり、志至りて気次ぐ」と、志(意志)の気に対する主導性を前提としつつ、志を専一にすることの必要性を説くとともに、人が自己の中の「浩然の気」を養うべきことに論及している。孟子によれば、浩然の気は名状しがたいものであるが「至大至剛」で、それを養えば天地の間にも充満し、かつそれは「義と道とに配する(つれそう)」もので義を行うことによって生ずるのだ、という。(同上)
[22] ささいなことについて廉潔、謹慎に努めること(汪、前掲書461頁参照)
[23] 同上、第五章参照
[24] 同上、543頁〜545頁参照
[25] 横井秀明『中国の古典名著・総解説』自由国民社、1998年、233頁参照
[26] 中国、宋代に始まる演劇の形態の名。時代により、その内容が異なる。宋代では滑稽風刺劇、元代では歌劇である元曲、明・清代では新形式の短編劇をいう。(『大辞泉』小学館)
[27] 大木康『中国明清時代の文学』放送大学教育振興会、2002年、60〜61頁参照
[28] 鈴木陽一編『中国の英雄豪傑を読む 『三国志演義』から武俠小説まで』大修館書店、
2002年、76〜79頁参照
[29] 高島俊男『水滸伝の世界』大修館書店、1991年、233頁参照
[30] 同上、6頁参照
[31] 大木、前掲書、58〜59 頁参照
[32] 同上、57頁参照
[33] 宮崎市定『宮崎市定全集12』岩波書店、1992年、p.174頁参照
[34] 相田、前掲書、9頁参照
[35] 荒木猛『反逆者の群像 水滸伝』日中出版、1988年、p.138参照
[36] 「見聞」に同じ(『大辞泉』小学館)
[37] 大木、前掲書、62〜63要約
[38] 同上、62〜65頁参照
[39] 高島、前掲書、296〜298頁参照
[40] 相田、前掲書、10頁参照
[41] 横井、前掲書、233頁参照
[42] 相田、前掲書、9〜10頁参照
[43] 「e国−好望角 音像商城」 http://product.eguo.com/hope/30102001145.htm
2004年1月17日現在
[44] 「澳赛网」 http://www.aussun.com/detail.asp?number=361&pro_name=%CB%AE%E4%B0%B4%AB%D6%AE%D3%A2%D0%DB%B1%BE%C9%AB 2004年1月17日現在
[45] 「DreamLand」 http://www.dream4ever.org/archive/t-10189.html
2004年12月20日現在
[46] 「水滸伝」 http://www.lnu.edu.cn/sh/sh.html 2004年12月20日現在
[47] 以上、好漢の基本情報については、高島、前掲書参照